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東京高等裁判所 平成10年(う)704号 判決 1999年8月17日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人岡村実が作成した控訴趣意書、同岡村実、同山本孝、同石川順子、同白井劍、同伊藤方一及び同見付泰範が連名で作成した控訴趣意書補充書(1)及び同(2)並びに弁護人岡村実、同石川順子及び同白井劍が連名で作成した同(3)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、原判決は、被告人が原判示の日時、場所において普通乗用自動車(以下「本件グロリア」又は単に「グロリア」という。)を運転中に器物損壊、公務執行妨害の各罪を犯した旨認定しているが、右日時、場所で本件グロリアを運転していたのは甲野太郎(以下「甲野」という。)であるから、被告人は無罪であり、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで検討すると、原審訴訟記録及び証拠物並びに当審における事実取調べの結果によれば、以下のとおり、原判決には事実の誤認があり、破棄を免れない。

第一  本件の概要及び争点

一  本件の概要

浅草警察署警察官濵野誠(以下「濵野」という。)及び同奥村英文(以下「奥村」という。)は、平成九年五月七日午後一一時四五分ころ、東京都台東区内で警ら用無線自動車浅草四号(以下「パトカー」という。)に乗車して警ら中、フロントガラス以外の窓ガラス部分に黒色フィルムを貼り、車高を低くした本件グロリアを発見し、整備不良車と認めて停止を求めたが、グロリアはこれを無視して逃走した。グロリアは、同日午後一一時五二分ころ、原判示の路上の第一走行帯で停車中の小野英一(以下「小野」という。)運転のタクシーの後方に停車し、パトカーもその後方に停車した。濵野は職務質問を行うためにパトカーから降車し、グロリアの運転者にドアを開けるように求め、そのころ奥村もパトカーから降車した。グロリアの運転者は、濵野らの求めに応ぜず、グロリアを前進させて前方に停車中の小野運転のタクシーに追突させ、次いでグロリアを後退させて後方に停車中のパトカーに衝突させ、その反動でパトカーを更にその後方に停車中の中川武一郎運転のタクシーに衝突させた。この間、濵野らが警棒でグロリアのフロントガラスを叩くなどしたが、運転者はこれを無視してグロリアの前進後退を繰り返して小野運転のタクシーやパトカーに衝突させ、小野運転のタクシーを前方に押し出してできた隙間から左方脇道に出て、その場から逃走した。グロリアは、翌八日午前二時ころ、同区元浅草の私有地に放置されている状態で発見されたが、運転者は既に逃走していた。

二  本件の争点

被告人は、右犯行当時のグロリアの運転者であるとして公判請求されたが、被告人は、捜査及び公判を通じて、各犯行を否認し、犯人は被告人からグロリアを借りて運転していた甲野であり、被告人には右犯行当時アリバイがあると主張する。なお、本件グロリアのハンドルからは、甲野の左手中指の指紋と一二点の特徴点で一致する指紋が一個検出されているが、被告人の指紋や掌紋は検出されていない。

第二  原判決の要旨

原判決の判断の要点は、おおむね次のとおりである。

一  本件犯行当時にグロリアを運転していた者は被告人であることに間違いない旨の原審証人濵野、同奥村及び同小野の各証言は、良好な目撃状態で本件を目撃しており、かつ、相互に重要部分で一致しているから、信用できる。

二  被告人のアリバイの主張については、証拠関係が変化するに応じて変遷していて被告人が自らの記憶に基づいて供述しているとは認められず、被告人の供述は信用できない。被告人のアリバイの主張に沿う原審証人宇田川満(以下「宇田川」という。)及び同井川浩(以下「井川」という。)の各証言は、信用し難い。

三  指紋の点について、「同じ箇所を何度も触れて指紋の流線がだぶってしまう場合などは指紋は検出されない。また、指紋で個人識別をするには特徴点が一二点なければならないが、グロリアのハンドルから検出された甲野の指紋以外の指紋や掌紋はその条件を満たさなかったので対照不能となった」ものであるから、グロリアのハンドルから被告人の指紋や掌紋が検出されなかったことは、被告人が犯人であることと矛盾しない。

四  井川は、五月五日ころに甲野がグロリアを運転しているのを目撃したなどと証言するが、それらが事実であったとしても、その後その所有者である被告人が甲野からグロリアの返還を受けたとしても何ら不自然、不合理ではないから、被告人が犯人であることと矛盾しない。

第三  弁護人の主張

弁護人は、原審における証拠調べ及び当審における事実取調べの結果に基づき、次のとおり主張(当審弁論を含む。)する。

一  目撃証人の証言の信用性について

本件目撃現場の照度は夜間で低く、運転席の人物の人相、年齢等を識別することは不可能ないし著しく困難な状況であった。目撃時間も短時間で、しかも恐怖、驚愕、狼狽下での目撃であったから、この点からも目撃証言の信用性は低い。すなわち、グロリアがタクシーに衝突する前、濵野らがグロリアのボンネットにかぶさるようにしてフロントガラス越しに運転席を覗き込んだという点は供述に変遷があって信用できず、フロントガラスを警棒で叩き始めてから後は、運転席の人相等を識別できるような状況ではなかった。とりわけ奥村、小野の証言は自らの記憶に基づくものとはいえないし、奥村による写真面割りの仕方は不自然である。

二  ハンドルに残された指紋について

本件では、ハンドルから一二点の特徴点が一致する甲野の左手中指の指紋が検出されているが、他にハンドルに残された指紋二個はいずれも対照不能あるいは鑑定不能として取り扱われた。しかし、このうちの一個は、甲野の左手環指の指紋と特徴点が六点で一致しており、しかもその採取場所は、車の運転に際しては通常運転者がよく触る部分である。他方、ハンドルからは被告人の指紋と特徴点が一点でも一致する指紋さえ検出されておらず、このことはごく自然に考えて、グロリアを運転していたのは甲野であって、被告人でないことを明らかにしている。

三  アリバイについて

被告人のアリバイに関する供述は変遷しているが、被告人が当初五月七日午後一一時三〇分ころ、甲野花子(当時の姓は乙川。以下「花子」という。)を迎えに上馬と若林の交番に行ったと供述していたのは、当時の記憶に基づくものであるから、右変遷を被告人に不利益に考えるべきではないし、交番の記録に照らせば簡単に覆されることを強硬にアリバイ主張していたこと自体、被告人が真犯人でないことを端的に示すものである。また、宇田川及び井川の原審各証言は、被告人のアリバイが成立することを証明している。なお、宇田川及び井川が証言した時点では、被告人には接見等が禁止されており、アリバイ立証のために偽証工作等をする余地はなかった。

四  グロリアの車内に存在した遺留物について

台東区元浅草の私有地に放置されていたグロリアの車内には夥しい遺留品が存在していたが、その多くは甲野のものであり、その中には①五月七日付けの日本道路公団浦和本線料金所において発行された高速道路通行料金の領収書、②同月六日午前二時五〇分ころ同芝浦料金所において発行された高速道路通行料金の領収書、③同月六日午前九時製造、翌七日午前一一時を消費期限として茨城地区や三郷地区で販売されたおにぎりの包みが存在するが、他の関係証拠からも被告人がそのころ当該の場所にいたということはあり得ず、かえって、そのころ甲野がグロリアを運転していたことを推認させる。

五  甲野及び花子の当審における各証言について

原審段階において覚せい剤取締法違反の件で指名手配中で行方が分からず、証言を得ることができなかった甲野が逮捕され、当審において証言しているところ、その証言内容は、グロリアを被告人から借りて運転していたことを認めた上で、遅くとも五月のゴールデンウィーク前に被告人に返還したというのであるが、他の関係証拠に照らして信用できない。

また、花子が当審で証言しているが、同女は、本件後甲野と婚姻しており、甲野に不利益な供述をしにくい立場であり、その証言は信用性がない。

第四  当裁判所の判断

以下、前記第二の原判決の要旨と同第三の弁護人の主張とを対比させつつ、当裁判所の判断を示す。

一  目撃証言の信用性について

1  目撃状況等は、濵野、奥村及び小野の原審各証言によれば、以下のとおりである。

濵野らはグロリアを整備不良車両と認め、運転者に停止を求めたが、グロリアは停止しなかったため、パトカーの赤色灯を点灯させ、マイクで停止を求めるなどして追跡した。グロリアは原判示の路上まで逃走したが、同所で前方の小野運転のタクシーの停止で道がふさがったために停車した。濵野らはパトカーをグロリアの後方に停車させ、まず濵野がパトカーから降りて、グロリアの運転席横に行ったが、窓ガラスに黒色フィルムが貼られていて運転者の顔が見えない状態であった。濵野は、運転席窓ガラスを叩いてドアを開けさせようとしたが、開ける様子がなかったので、ボンネット上にかぶさるような感じで、フロントガラス越しに運転席を覗き込んで運転者を確認した。このとき、濵野と運転者との距離は約一メートルであり、濱野は、その際、フロントガラスを叩いて開けなさいと何回か言ったが、運転者は、グロリアを前進させてタクシーに衝突させ、さらに、タクシーに二回くらい衝突させた後、後退して後方に停車していたパトカーに衝突させた。濵野は運転者を器物損壊及び公務執行妨害の現行犯人として逮捕すべく、グロリアのボンネットに覆いかぶさるような体勢で警棒でフロントガラスを叩いたが、その際にも運転者の顔を確認した。奥村は、濵野がフロントガラスの方に回り込んだころ、パトカーから降り、濵野の左側でグロリアの運転席ドアと前輪タイヤの中間くらいの位置に立ち、ボンネットに身を乗り出した体勢でフロントガラスを叩き、フロントガラスから約五〇センチメートルの距離から運転者の顔を確認した。また、小野は同人運転のタクシーにグロリアを衝突させられた後にタクシーから降車し、グロリアに近づいて濱野及び奥村の後方で約一、二メートルのところからグロリアの運転者の顔を見ている。

本件目撃現場の明るさについて、所論は、当審証人高山昌光の証言及び同人作成の「照度測定および写真撮影報告書」(当審証拠等関係カード弁護人請求証拠番号第三六号証。以下、書証等については「当審弁第三六号証」というように略称する。)を根拠にして、フロントガラス越しに運転席を見たときに、運転席の人物の人相、年齢等を識別することは不可能ないし著しく困難な状況であったと主張する。しかし、本件当夜は、街灯のほかに現場工事の照明や通行車両の照明もあったのであり、右報告書が本件当夜の目撃現場の明るさをそのとおり再現しているとまでは直ちにいえない。平成九年六月八日付け実況見分調書(原審検甲第二一号証)中の本件現場の照度(ルクス)の記載には、その正確性の点で疑問がないとはいえないが、しかし、右実況見分は、目撃者である濵野、奥村の両警察官のほかに、小野が立ち会った上で実施されているところ、同調書には、例えば、「運転席に人間を座らせ、同人に新聞を同人の顔付近に持たせた場合、車外の目撃したという位置からその新聞の見出し等の活字が判読可能であるか確かめ、それが可能であった」旨の記載があり、これらにかんがみると、正確な照度の程度の点はともかくとして、所論のいうように運転席の人物の人相、年齢等を識別することがおよそ不可能であるとか、著しく困難な状況にあったとまではいえないし、原判決が指摘する目撃した距離、視力、目撃時間のほか、濵野や奥村が、グロリアの運転者を現に犯罪を行っている犯人として意識した上で注視したものであることなどを総合すると、濵野、奥村及び小野の各目撃は、それについて証言するところがおよそ信用するに足りない状況下でのものということはできない。

また、濵野、奥村及び小野による写真面割りの仕方についてみると、被告人及び甲野の顔写真を含む八人の顔写真が貼られた写真台帳の作成に関する経過は明らかでないが、濵野及び奥村の原審証言によれば、濵野及び奥村は、右写真台帳を別々に示され、濵野らにおいては、すぐにこれら八人の顔写真の中から被告人の顔写真を示して、犯人であることを特定しているのであり、その面割りの仕方に特段不適切なものがあったとはいえない。

しかし翻って考えると、当審証人高山昌光の証言及び同人作成の前記報告書等にかんがみれば、本件現場がもともと深夜の路上でそれほど明るいとはいえず、しかもフロントガラス部分以外はフィルムが貼られた車の運転席の運転者を見るという状況での目撃であること、静止した状況での目撃時間はかなり短く、瞬間的といっていいほどであること、グロリアが前進や後退をし始めてから後の目撃は、フロントガラスを警棒で叩きながらの、さらには途中からは同ガラスにひびが入った状態でのものであり、しかも警察官としては身の危険を感じながら早急に逮捕すべき状況下のものであることが認められ、これらを総合すると、その目撃状況は、原判決がその説示中でいうほどには良好な状態下でのものということはできないといわなければならない。

したがって、以上のような状況下での目撃者の証言の信用性の判断に当たっては、その供述内容を吟味するほか、関係する他の証拠によってその内容が補強されているかなど相当慎重に検討する必要があると考えられる。

2  そこで更に進んで濵野、奥村及び小野の各供述内容の信用性について検討する。

濵野は、犯人は被告人であると証言しているところ、司法警察員に対する供述調書(原審検甲第四六号証)において、「運転していたのは、年齢二三歳くらいヤセ型、面長、一見遊び人風の男で助手席には若い感じの男が乗車しており、後部座席にも人影が見えたので三人乗りと判断したのです。」と供述し、その内容は、検察官に対する供述や証言とも一貫していて、変遷も見られない。しかし、犯人の容貌等についての供述内容が、それだけでその信用性を十分担保するほどに具体的に特徴をとらえたものとまではいえない。次に奥村の供述等についてみると、奥村は、同人の同年五月八日付け司法警察員高橋藤一郎に対する供述調書(原審検甲第五〇号証)において、「運転席には年齢二二〜三歳位、やせ型、面長、一見遊び人風の男、助手席には男で若い感じ、後部座席に人影が見えて三人乗りと判断したのです。」と供述していたものが、写真面割り後の同日付司法警察員早坂政明に対する供述調書(原審検甲第五一号証)において、運転者の容貌について「一見外人ぽい顔」という部分がつけ加わり、さらに、検察官に対する供述調書(原審検甲第五三号証)では、「運転席に男がいたほか、助手席にも若い男がいました。濵野巡査部長は、後部座席にも人影があったと言っていますが、私は気づきませんでした。」と供述している。その供述の変遷は、その信用性を判断する上で軽視し難いものがあるといえよう。さらに、小野の供述についてみると、小野は写真面割りの際は、被告人が犯人であると断定することは避けていたものであるが、被告人が逮捕された後の同月二一日に取調室に入る被告人を見て、犯人に間違いないと供述し、原審公判廷においても同様の証言をしている。小野は、タクシー運転手であって、意図的に被告人に対し不利益な供述をしたり、虚偽供述をしたりすることは考えられず、また、右供述態度は慎重であるから、一般的には、その証言の信用性は高いものがあると考えられる。しかし、被告人は、本件当夜と異なり、逮捕時には頭を坊主にし、眉を剃った状態だったのであるから、逮捕されている被告人を見て直ちに犯人と断定できたというのは、やはり不自然というべきである。小野は、既に写真面割りの段階で被告人の写真を見せられることによって暗示を受け、その上で手錠をかけられた状態の被告人を見て、犯人は被告人であるとの確信を抱いてしまったおそれも否定できない。

これらを総合すると、「捜査公判を通じて重要部分について一貫し、かつ、相互に重要部分で一致している濵野ら三名の目撃供述は十分信用することができる」旨の原判決の説示には、にわかに左袒し難いものがあるといわなければならない。

二  ハンドルに残された指紋について

関係各証拠(原審検甲第三〇ないし第三三号証、当審検第八ないし第一一号証)によれば、グロリアのハンドルの三か所から指紋が採取されたこと、ハンドル下方左(くぼんだ部分)から採取された指紋は、甲野の左手中指の指紋と一二点の特徴点で一致し甲野のものと確定できること、ハンドル上方右から採取された指紋は、流線が崩れており被告人や甲野の指紋と対照することが不能であること、ハンドル上方左(運転中比較的触れやすい部分)から採取された指紋は、甲野の右手環指の指紋と六点の特徴点で一致したが、一二点の特徴点で一致しないため鑑定不能である旨の扱いとなったことが認められる(我が国の警察実務においては、指紋の特徴点が一二点以上一致すれば、二つの指紋は同一人の指紋と鑑定するいわゆる一二点説で運用されているが、警察庁において約六〇万の指紋について調査した結果、異なる者の間で五点以上特徴点が一致するものはなかったといわれている。)。

このように本件では、グロリアのハンドルから被告人の指紋と一点たりとも特徴点が一致する指紋は検出されず、他方、弁護人及び被告人が本件の犯人であると主張する甲野の指紋(甲野のものと確定し得るもの一個と六点の特徴点で一致するもの一個)が検出されている。ある物体に対照可能な、あるいは鑑定可能な指紋が残ったり残らなかったりするのは、かなりの程度偶然に左右され理屈だけで説明しきれないところもあるが、それにしても、本件で、被告人が犯人であるとすると、右事実についてはどのような説明が可能なのかが問題となる。

この点について、当審証人石川俊一は、あくまで一般論としてではあるが、「被告人が分泌物の少ない体質であること、指紋が一旦付いたが、他の指紋が触れたりこすったりしたため消えてしまったこと、あるいは被告人が意図的にハンカチなどで拭ってしまったことなどが考えられる。」旨証言する。しかし、被告人が分泌物の少ない体質であることは証明されておらず、かえってグロリアの後部リアガラス外側から被告人の指紋が検出されていることからすれば、被告人がそのような体質でないことが窺われるところである。また、一旦付いた被告人の指紋が意図的にせよ偶然にせよ、こするなどして消えた可能性がある旨の説明も、甲野の指紋が前記のとおり検出されていることにかんがみると、やはり不自然で、説得的でないというほかない。また、甲野の指紋が検出されていることについていえば、石川証言がいうように、指紋だけからその印象の時期は分からず、この点だけから本件犯行時グロリアを運転していたのが甲野であると確定することまではできず、したがって、また、被告人が本件犯行時グロリアを運転していた可能性が否定されるわけではないとはいえよう。しかしながら、それは被告人が本件犯行時グロリアを運転していた可能性まで否定できないといえるだけであり、本件についていえば、原審証人廣岡義明が証言するように、ハンドルから被告人の指紋が検出されない理由は、その直前にこれに触っていなかったからであると考えるのが、やはり可能性としては一番高いというべきであると考えられる。

そうすると、グロリアのハンドルから対照不能の指紋があったことを説明した上で「グロリアから被告人の指紋や掌紋が検出されなかったことは、被告人が本件の犯人であることと矛盾するものではない。」との原判決の見方は、本件に即していえば、指紋が人証等に比し格段に客観的で証明力の強力な証拠であることに徴し、安易にすぎるといわざるを得ない。

三  アリバイについて

1  アリバイに関する被告人の供述は、原判決がいうとおり、捜査段階、原審公判段階を通じて変遷しており、その限りでは信用性が高いものとはいえない。しかし、以下に指摘するとおり、原審で取り調べた証人宇田川及び同井川の各証言並びにこれを裏付ける客観的事実を総合考慮すると、この点に関する被告人の供述が変遷していて信用できないとして直ちにこれを排斥することはできないと考えられる。

2  宇田川の原審公判廷における証言は、原判決が要約しているとおりであるが、その概略はおおむね次のとおりである。

「平成九年五月七日午後一〇時か一一時ころ、大友幸也運転の車に大友、被告人、花子及び自分の四人が乗り、井川のところに遊びに行き、同人の家の前で井川を交えて八日の午前二時ころまで話をした。その後、桜新町駅付近に停めてあった自分の車を取りに行き、そこで大友と別れ、自分の車に被告人と花子とが乗って新宿に行った。その途中の午前三時から五時ころに被告人に何度か電話がかかってきて、上野か浅草の方で貸していた車がぶつけたかぶつかったかして事故を起こしたという感じの話をしていた。新宿に行った後、五反田のコインロッカーに被告人の荷物を取りに行き、ボストンバッグを取ってから、午前八時ころ、渋谷のセンター街に行った。被告人が甲野と会うことになり、午後二時か三時ころ、甲野が自分の車に乗って来た。被告人と甲野との間で、怪我をしているかとか、車のへこみ具合はどうかなどと話をしていた。八日の午前九時か一〇時ころ、井川の家の電話が止められていたのを復旧させるためNTTに電話した記憶がある。被告人と会っていたのは、五月七日午後一〇時ころから八日午後四時か五時ころまでだと思う。」

井川の原審公判廷における証言も、原判決が要約するところであるが、その内容はおおむね次のとおりである。

「五月四日夜、被告人が自分の家にやって来て一緒に遊び、六日朝に帰った。七日の夜、被告人が大友の車で、大友、宇田川、花子と共に自分のところに来た。家の外で一時間か一時間半くらい話をした後、桜新町のファミリーマート付近に宇田川の車を取りに行き、自分と大友は、そこで被告人、宇田川、花子と別れた。被告人らは宇田川の車に乗って行った。被告人が自分の家に来た日に自分の家の電話が止められたが、翌朝(八日)午前八時か九時ころ、宇田川から、自分と連絡を取るのに必要だからNTTに電話の復旧を頼んでよいかと言われたので、その件は宇田川に任せた。電話が復旧した日は、午前五時か六時ころから午後零時ころまで、友人の豊住の家でバーベキューをしており、その間に宇田川から電話の復旧のことで連絡があり、通話が可能になるようにしてもらった。」

3  以上の宇田川及び井川の各証言が信用できるものであるならば、被告人は本件犯行当時の五月七日午後一一時五二分ころには、宇田川、花子らと一緒におり、本件犯行現場にいなかったことになるところ、原判決は、両証人の証言内容を同人らの検察官に対する供述調書(宇田川について原審検甲第三七号証、井川について同第四五号証)等と対比しつつ、被告人の本件犯行日時のアリバイに関連する部分については、同人らの証言は信用できないと結論している。

しかしながら、宇田川及び井川の各証言は、同人らの検察官に対する供述調書の内容と対比し、更に関係各証拠と照らし合わせると、細部についてはともかく、その大筋については、これを信用できないとして一蹴することができない内容を含んでいると考えられる。

まず、宇田川証言についてみると、宇田川は、本件公訴提起の前日である平成九年六月九日付けの検察官に対する供述調書(原審検甲第三七号証)において、公判における証言の中で五月七日の午後一〇時ころから翌八日午後にかけて経験した事実として述べることは間違いなくあったものであるとした上で、それが六日のことか、七日のことかはっきりしない、どちらかといえば六日のことだと思うと、供述していたのである(なお、六月九日当時、被告人は、本件犯行日時である七日午後一一時五二分ころは、下馬や若林の交番に花子を探しに行っていたとのアリバイを主張していた。)。ところが、関係証拠(原審弁第一四号証、当審弁第三三ないし第三五号証等)によれば、被告人は五月六日午後から七日午前一一時ころまで五反田の「ゆうぽうと」に宿泊していた事実が認められる。そうすると、宇田川が経験していない事実をねつ造しているというのであればともかく、そうではなく日付けの点についての正確性を別にして、そこで述べているようなことを実際に経験したというのであれば、それは五月七日午後一〇時ころから八日の午後にかけてのことであったということになる。そして、関係証拠に照らすも、宇田川がこの点について意図的に事実をねつ造しているという証跡はない。さらに、宇田川が自動車の中で聞いたという、被告人の電話での話の内容や自動車内での被告人と甲野との会話についてみても、検察官に対する前記供述調書において既に「被告人が自分名義の車にぶつかったとかぶつけられたという話をあちこち電話していたことがあったが、詳しいことは分からない。甲野と被告人は事故の話をしていたがよく聞いていなかったので分からない。」旨供述していたのである。原判決は、検察官に対しては右の程度にしか供述していなかったのに、公判廷で詳しい供述をするのは不自然であるとして、その信用性を否定しているが、検察官に供述した程度であっても、それが事実であるならば、そのような事故は度々起こるようなものではないから、本件犯行後にそのことが被告人と甲野等との間で話し合われたものと解すべきであろう。また、井川の家の電話の復旧についても、宇田川は日付けが確認されていない段階でその前日夜に被告人と会った旨証言し、その後の検察官による照会(原審検甲第五八号証、第五九号証)で電話の復旧の件が五月八日のことであることが確認されるに至っているのである。

次に、井川証言についても、自宅の電話の復旧の件については、右のとおり客観的に裏付けられている。また、井川は検察官に対する供述においても、五月四日から六日にかけて以外に、いま一回被告人と会っていること、その後別れて友達の家でバーベキューをしたことを認めていたのであり、ただその日は、「次の週だったと思う」と供述していたのであるが、井川は、二度目に被告人と会った日を電話の復旧の件を契機にして、五月七日から八日にかけてのことであると証言するに至ったのである。原判決は「このことは、もともと、井川の記憶の中で、両事実が同じ日のことであると関連づけて記憶されていなかったことを示している。」と説示するが、仮に記憶がそのようなものであっても、喚起された記憶の内容が一部客観的に裏付けられている以上、右を理由として直ちにその信用性を否定することはできない。

確かに本件アリバイの主張の骨格は、証人の各証言に依拠するものであり、その信用性を肯定して被告人にアリバイがあるということには相当慎重でなければならないといえよう。しかし、本件では、右各証言の一部に符合する客観的事実が認められるところ、宇田川及び井川において、右裏付けのある事実にことさら結びつけて意図的に記憶と異なる証言をしている疑いがあるとはいえないのであり、右両証言の信用性を否定した原判決の判断は肯認できない。

四  グロリアの車内に存在した遺留物について

1  甲野は、当審における証言において、後記五の1で要約するように、被告人から本件グロリアを借りたことがあることを認めた上(その限りでは被告人の供述内容と符合するものとなっている。)、五月のゴールデンウィーク前に被告人に返還していると供述している。他方、被告人は、甲野から本件グロリアの返還を受けていないと供述している。いずれの供述が信用できるかについては後述するが、その前に、その判断をする上で欠かせないと考えれるグロリアの車内に存在した遺留物(当審における事実取調べの結果によって明らかになったもの)について検討を加える。

2  岡村実作成の写真撮影報告書(当審弁第一三号証、第一六号証、第二〇号証)、検察事務官浅野真由美作成の写真撮影報告書(当審検第一二号証)等を総合すると、グロリアの車内に存在した遺留物の中には、被告人所有の品物もいくつか存在するが、甲野の所有する品物あるいは甲野に深くかかわると思われる品物がはるかに多く存在することが認められる。すなわち、特に重要な意味を持つのは後記3ないし5についてであるが、それ以外にも、甲野の戸籍謄本、甲野の国民健康保険証、銀行預金通帳、甲野あての各種請求書、甲野のために処方された薬、甲野にあてられた手紙、甲野の娘の写真、甲野の娘のためのものと思われる教材が存在するほか、さらには、注射針、注射用タチオン、消毒用エタノール、オキシドール、ビニール・パケなども、右甲野のために処方された薬が入っていたのと同じ鞄の中から見つかっており、甲野の所有物と考えるのが相当である。

甲野は、当時指名手配中で、自動車の中で起居するなどしていた旨自ら証言するのであるが、以上のような物が本件犯行直後の五月八日午前二時ころ台東区元浅草で発見されたグロリアの車内に存在していた事実は、その直前まで甲野がグロリアにいたことを推認させるものということができる。

3  関係各証拠(当審弁第四一号証、第二七号証、第二八号証。更に同第一三号証写真撮影報告書中の関連する写真一三六番から一六八番)等によれば、グロリアの車内からは本件事件の当日である五月七日付けの日本道路公団浦和本線料金所が発行した高速道路通行料金の領収書(四五〇円のもの)が発見されたこと、右料金は甲野の長女である甲野桃子が会員であるセゾンカード(VISAカード。カード番号<略>)によって支払いがされていること、平成九年の三月から四月にかけて右セゾンカードを使って多数回給油代金等が支払われていること、甲野自身公判廷において右の時期に右セゾンカードを使ってガソリンの給油代金の支払いをしたことを認めていること、五月三日以降の給油代金や通行料金の支払いのための右セゾンカードの利用状況は、それが利用された場所から判明するところの行動区域(高井戸・調布・国立府中・相模湖・八王子本線、沼津・御殿場、岩槻・浦和本線の三方面)等の点を含め、それ以前と大差はなく、右行動区域はいずれも甲野と縁が深いところであることなどが認められる。他方、被告人が右セゾンカードを利用したとか、前記の各方面によく行っていたことなどを証するものはない。

グロリア車内から発見された五月七日付けの日本道路公団浦和本線料金所が発行した高速道路通行料金の領収書を前記セゾンカードを利用して取得した者が、本件犯行時にグロリアに乗車していた可能性が高いと考えられるところ、その者は被告人ではなく、甲野とみるのが自然である。

4  関係証拠(当審弁第二〇号証写真撮影報告書中の写真六番、同第二一ないし第二三号証)によれば、グロリアの車内から、五月六日芝浦(上)料金所において高速道路通行料金七〇〇円が現金で支払われた領収書が発見されたこと、右領収書は、首都高速一号羽田線の料金所で発行されたもので、領収書の打ち出し時刻は、五月六日午前二時五〇分ころであり、ほぼその時刻に右領収書が発行されたものであること、右領収書は、高速道路の入口料金所で発行され、運転者は上り方向(芝公園又は汐留方面)に向かったことになることが認められる。

右領収書は、グロリアの車内から発見されているのであるから、グロリアの運転者がそのころ右領収書を受け取ったとみるのが自然である。ところで、井川及び宇田川の前記各証言、成田千賀子の日記(原審検甲第四四号証)並びに花子の当審における後記証言によれば、被告人は、五月五日から六日の朝にかけて、井川や花子と夜通し行動を共にしていたことになるところ、これに疑問を差し挟む直接的な証拠はなく、被告人が五月六日午前二時五〇分ころ、グロリアを運転して前記芝浦(上)料金所周辺にいたことを窺わせる証跡はない。

5  関係証拠(当審弁第一三号証写真撮影報告書中の写真一八七番、同第二九ないし第三二号証)によれば、グロリアの車内から、おにぎりの包み紙が、たばこ(ショートホープ)の箱、菓子パンの空き袋等とともに、コンビニエンスストアのビニール袋の中に入れられた状態で見つかっていること、おにぎりの包み紙の表示から、おにぎりは五月六日の午前九時が製造日時で、セブンイレブンの茨城地区三二三店舗、三郷地区一一八店舗に配送されるが、配送時間帯は五月六日午後三時から六時の間であること、ラベルには「Y9」という印字があり、これは廃棄時間を示すところ、これは五月七日の午前九時の意味であることが認められ、したがって、これを購入した者は、五月六日午後三時から翌七日午前九時ころまでの間、茨城地区か三郷地区にいて、グロリアを運転するか、これに同乗していたものであると推認することが可能である。

しかしながら、関係証拠(当審弁第三三ないし第三五号証、原審弁第一四号証等)によれば、前記のとおり、被告人は、五月六日午後三時ころから翌七日午前一〇時ないし一二時ころまで、五反田にある「ゆうぽうと」に花子とともに宿泊していたことが認められるから、被告人が右おにぎりを購入したとか、そのころグロリアを運転し、あるいはこれに同乗していたことはあり得ない。

6  以上、当審における事実取調べの結果によって明らかになったグロリアの車内に存在した遺留物について検討をすることを通じて、本件犯行当時あるいはその前ころに被告人がグロリアを運転していた可能性があるかどうかをみたが、遺留物の中には被告人の所有物と認められるものがないわけではないが、前記のとおりほとんどは甲野に深くかかわる物であることから、本件犯行当時グロリアを運転していたのが被告人である可能性は極めて乏しいといわなければならない。

五  甲野及び花子の当審における各証言について

1  甲野は、当審公判廷に証人として出廷し証言したが、その内容を本件犯行に密接に関連する事項に限って要約すると、おおむね次のとおりである。

「カリーナEDを被告人から買ったような形で使っていたが、これを返すことになり、代わりに本件グロリアを借りた。時期ははっきりしないが、平成九年の三月か四月ころである。当時自分は指名手配されていて逃亡中であり、車の中で寝泊まりもしていた。四月末か五月初めのゴールデンウィークの前にグロリアを被告人に返した。部下の深野と一緒に被告人の駒沢の住居に返しに行った。三〇分くらい家に上がって話し込んだが、急ぎの用事があったので、グロリアに置いてあった持ち物全部を深野の車に移し替えていない。グロリアの車内に自分の持ち物があるのはこのためである。五月七日午後一一時五二分の本件犯行を自分はやっていない。被告人の犯行であると自分は言っていないし、自分には分からない。」

そこで検討すると、グロリアを被告人に返却したときの状況、グロリアの車内に残っていた物等について甲野が供述するところは、多分に回避的でその内容においてもあいまいで合理的であるとはいえず、その供述態度も決して真摯なものとはいえない。これに加えて、甲野のグロリア返却に関する供述内容は、他の証拠によって何ら裏付けられておらず、かえって前記四のとおり客観的な証拠と矛盾するところが多々あることなどに徴すると、その供述は信用できない。

2  花子については、原審において同人の検察官に対する供述調書二通(原審検第二四及び第二五号証。ただし、第二四号証については同意部分のみ)が調べられたが、当審においては証人調べがされた。その証言内容の概略は、次のとおりである。

「本件当時は被告人と同棲し、被告人の子供を身籠もっていた。五月五日の子供の日は、被告人、井川らと渋谷に行き、甲野と喫茶店で会い、夜は井川の家に行って六日の朝方までそこで喋っていた。六日は被告人と共に五反田の「ゆうぽうと」に泊り、七日は三宿の家に一緒に帰った。夕方のテレビがゴールデンウィークのことを特集していた。八時くらいに寝てしまい、夜一〇時か一〇時半ころ目を覚ましたが、被告人はいなかった。セブンイレブンの公衆電話を使って被告人の携帯電話に何度か電話したがなかなか通じず、八日の午前一時過ぎに話ができた。移動中ということだったが、午前二時ころに帰ってきた。五月五日から七日までの間、被告人と二人で行動するときは、電車とタクシーを使っていた。そのころ被告人がグロリアを運転するのは見ていない。甲野の子を妊娠し、甲野と平成一〇年七月に婚姻している。」

花子の証言の信用性を検討するに、五月五日ころから六日にかけての行動、さらに「ゆうぽうと」に宿泊したことなどに関しては、大筋において井川や宇田川の各証言やその他の関係証拠とも符合している。問題は、本件犯行日時である五月七日の夜に関してであるが、その証言部分は、花子が当審で証言した当時の立場にかんがみ、また、井川や宇田川の原審各証言に対比して、信用することはできないものといわなければならない(なお、五月七日夜以前の被告人の行動に関する花子の供述は、前記のグロリアに遺留された物との関連では、被告人が本件犯行当時グロリアを運転していた可能性が乏しいことを裏付ける内容を含んでいることを指摘できる。)。

六  被告人の供述等について

被告人は逮捕後、一貫して本件犯行を否認してきた。捜査及び原審公判の当初における被告人の供述についていうと、例えば身上についでみても虚偽内容を含み、また、変遷も多いものであった。他方、原審において宇田川、次いで井川の各証人調べが行われた後は、その供述は、当審におけるものを含め、大筋においてほぼ一貫したものとなっており、宇田川及び井川の各証言後の供述とはいえ、前記のとおり容易にはその信用性を否定し難い宇田川及び井川の各証言と基本的には一致しているのである。そうすると、被告人の供述もまた各証言と同様、これを信用できないとして直ちに排斥することはできないと考えられる。個別的にみても、被告人が逮捕時から原審公判の当初まで、本件犯行当時のアリバイとして上馬や若林の交番に花子を探しに行っていたと主張していたことも、それが一日ずれた五月八日に実際にあったことに照らすと、意図的に虚偽供述をしたというよりは、当時本当にそのように思い込んでいたとみるのが相当であり、また、そうすると、本件の真犯人でないからこそ、そのような供述をしていたとの所論にも説得性を認め得るように思われる。また、被告人は逮捕される前、頭を坊主にし眉を剃っていたことが認められるところ、これをどのように評価すべきかについてみると、人相を変えるための意図的な行為であるとみる余地もあるとはいうものの、被告人が大島組長や甲野からグロリアの盗難届を出すよう催促されたが、これに従わなかったことなどの責任をとって、頭を坊主にし眉も剃った旨を原審当時においても供述していたのであり、その内容は具体的であり、理解ができないものではない。したがって、この点も被告人に不利益に解するわけにはいかないものである。

七  当裁判所の判断のまとめ

本件において、被告人が犯人であることを証する積極証拠は、被告人が本件グロリアを購入し、所有していた事実を除くと、濵野、奥村の両警察官と、タクシー運転手小野の合計三名の目撃証言だけである。したがって、その信用性が問題となったが、それと併せて、弁護人及び被告人が本件犯人であると主張する甲野は、当審における証言において本件前グロリアを被告人から借りていたことを認め、ただこれを本件当日以前の五月のゴールデンウィーク前に被告人に返却したと供述しているので、右時期にグロリアが被告人に返却されたのかが問題となった(なお、これに関連して、原判決が前記第二「原判決の要旨」の四で説示する点については、他の論点に対する判断で解消していることを指摘するにとどめる。)。

これらの点について、原判決の判断と弁護人の主張とを対比させつつ検討を加えたが、本件においては、何よりもグロリアのハンドルから甲野の指紋一個と特徴点が六点で一致する指紋一個が検出されているのに、被告人については一点たりとも特徴点が一致する指紋が検出されていないこと、グロリア車内から発見された本件犯行当日である五月七日付けの高速道路通行料金領収書が甲野の長女名義のクレジットカードで支払われていること、同車内には本件犯行日ころに被告人がグロリアに乗っていたことを窺わせる物はなく、かえって甲野に深くかかわる物が多数存在していたことなど、そのころ甲野がグロリアを運転していたことに結びつく証明力の高い客観的証拠があり、加えて、被告人の主張するアリバイについての供述や各証言には「ゆうぽうと」宿泊とか電話の復旧とか交番二か所への立寄りなどの客観的事実による裏付けがあって、にわかに排斥すべきではないことが明らかとなった。

これらの証拠関係から翻って原判決が被告人を有罪とした唯一ともいえる積極証拠である三名の目撃証言について慎重吟味するに、やはり前記一のとおり、その目撃状況が必ずしも良好とはいえず、その証言に変遷や不自然な点があることなどに徴し、右目撃証言は信用できないといわなければならない。

第五  結論

以上の次第で、当審における事実の取調べの結果を加えた関係各証拠によれば、被告人が本件グロリアを運転中に器物損壊、公務執行妨害の各罪を犯したと断定するにはなお合理的な疑いが残り、結局本件は犯罪の証明がないことになる。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書に従い、被告事件について更に判決する。

本件公訴事実は、被告人は、

「第一 平成九年五月七日午後一一時五二分ころ、東京都台東区東上野一丁目一五番二号先路上において、被告人運転にかかる普通乗用自動車を同所に停車中の東京交通自動車株式会社(代表取締役伊藤成雄)所有の普通乗用自動車に衝突させて、同車の左後部バンパー等を凹損し(損害額一五万九八四〇円相当)、もって、他人の器物を損壊した

第二 前記日時ころ、東京都台東区東上野一丁目一五番三号先路上において、警ら用無線自動車浅草四号に乗務して警ら中の警視庁浅草警察署司法巡査濵野誠及び同奥村英文が、被告人を挙動不審者として職務質問しようとした際、被告人運転にかかる普通乗用自動車を右警ら用無線自動車に衝突させ、もって、右両司法巡査の職務執行を妨害するとともに、右衝突により、国有物品である右警ら用無線自動車の前部バンパー等を凹損し(損害額五〇万〇六三〇円相当)、さらに、右警ら用無線自動車を同所に停車中の東都自動車交通株式会社(代表取締役宮本市郎)所有の普通乗用自動車に衝突させ、同車の左後部ドア等を凹損し(損害額三五万八〇六〇円相当)、もって、他人の器物を損壊した」

というものであるが、以上のとおり本件においては、犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官米澤敏雄 裁判官岩瀬徹 裁判官沼里豊滋)

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